「泉南石綿村」を知る 「泉南石綿の碑」に行ってきました
石綿村(いしわたむら)とは、かつて大阪府の泉南市と阪南市にまたがって存在した、石綿製品を作る工場が集中していた地域。
明治時代からこうした工場が乱立し始め、国の後押しもあって、ピーク時の1960 - 1970年代には工場数は200を超え、日本の石綿生産の6 - 7割を占めた。
その間、何度か石綿の健康被害に関する調査報告も行われたが、住民には何も知らされなかった。 21世紀に入り、他地域ではクボタなどにより石綿被害者の救済が行われた。石綿村の排出源であった企業は中小・零細が大半で既に転廃業しており、企業側による自発的な救済は行われなかった。このため政府に対する損害賠償訴訟が起こされた。
泉南市とか阪南市と言われてもどこかわからない方がほとんどだと思いますので、地図も貼っておきます。大まかにですが、赤線で囲っています。
なぜ僕が、「泉南石綿村」に興味を持ったかと言うと、自分が今住んでいるところが、この泉南地域だからです(住みだして10年ちょっと)。
泉南市にある図書館に行くと、アスベストについて書かれた本の特集コーナーを目にすることもあり、地域の関心が高いことをうかがい知る状況にありました。
この、泉南地域の石綿(アスベスト)による健康被害と国への訴訟がテーマになった映画が公開されているという情報も目にしていました。
そして、泉南市内に、「泉南石綿の碑」というものがあることを知ったので、さっそく行ってみることにしました。
泉南石綿の碑
場所は、泉南市内を通っている熊野街道(紀州街道)沿いにあります。
春に、藤まつりで訪れた場所の目の前でした。
石碑の裏側にも文字が刻まれています。
文字のところをアップで。
なぜアスベスト被害が拡大したか、国への訴訟問題に発展したのか、この説明を読むとよく分かります。
国は1937年から実態調査や戦後の継続調査を実施しており、泉南地域の深刻な被害の実情を早くから把握していたが、経済成長を優先し、有効な規制・対策を行わず放置していた。
なるほど。
経済成長という「利益」と、そこで働く国民の「生命」を天秤にかけた結果、「利益」を取ったというわけですね。そりゃあ、ニッポン国を訴えるのは当然の流れ。命を返せと。呼吸を返せと。
今だって、第二第三のアスベストのような我々庶民には知らされていない隠された健康問題は無いとは思えない。
ここで重要なのは、小さな工場がいくつもあったということなのでしょう。
先ほどとはまた別の石碑。
誌が刻まれています。
「新緑を 吸い込み いや増す悲しみぞ
息ほしき人の あるを知るゆえ」
「帰らぬ母に」
帰らぬ母に
わたしは問いかける
そこに花は咲いていますか
暗く小さな工場の中
白い塵(ちり)が舞っていましたね
粉雪のように
帰らぬ父と
帰らぬ夫に
わたしは問いかける
そこに陽はさしていますか
油で汚れた作業場で
働きづめの日々でしたね
子供たちのために
帰らぬ友に
わたしは問いかける
そこに風は吹いていますか
せわしく行き交うシャトルの音
がんばりやの織り子さんでしたね
なにも知らされずに
遺されたわたしは誓う
もう涙は流さないと
いしわたの町に生まれ
いしわたの町で育ち
わたしは今顔をあげて
五月の空へ
あるきはじめる
http://www.asbestos-osaka1.sakura.ne.jp/act-material/pdf/kaeranuhahani.pdf
石碑のところに設置されていた、映画のビラも頂いてきました。
映画の予告編ご紹介
まだ観れていないのですが、必ず観ます。
以上です。
お付き合いいただきありがとうございました。