熊野街道 この道わが旅 其の一 (樫井古戦場跡~山中渓)
大阪は泉州に移り住んで10年と少し。最近になって、近所に「熊野街道(紀州街道)」という熊野三山へ通ずる参詣街道がある事を知りました。
下の図で言うと、左にある「紀伊路」がそれに当たります。
熊野街道(くまのかいどう)は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれた。また、説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)ともいう。
ちなみに大阪には街道と呼ばれるものが11あるそうな。
大阪の道の歴史より
歴史にはあまり興味が無いまま今まで過ごしてきたのですが、歴史を感じられる街道に興味を持ち始め、今では街道探索が趣味の一つになりつつあります。
そんなわけで、今回は樫井古戦場跡近辺からスタートし、山中渓までの熊野街道(紀州街道)を巡って参りました。
樫井古戦場跡付近
125ccの原付バイクで出発。まず訪れたのが、泉佐野市にある樫井(かしい)古戦場跡。
▲大坂夏の陣で北から豊臣方、南から徳川方が攻め入るわけですが、この地で衝突、合戦が行われたそうです。
▲すぐそばに樫井川が流れています。
少し北に移動すると、史跡がチラホラあります。
大坂夏の陣で討ち死にした、豊臣方先鋒隊の主要人物、塙団右衛門の供養塔。
▲淡輪六兵衛(たんのわろくべえ)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
大坂夏の陣で豊臣方の武将として樫井合戦で討ち死にした淡輪六兵衛の供養塔。
一岡神社・海会寺跡付近
次に訪れたのは一岡神社(一丘神社)。
この一岡神社の境内には、7世紀に建立された古代寺院の海会寺(かいえじ)の遺跡があります。保存状態が良く、法隆寺式で建立されたことが分かっているそうです。
▲とりあえず、輪っかの中をくぐっておきました
▲海会寺の案内板と、遺跡
オレンジ色の杭は、回廊部分の基礎と柱があったところ。
林昌寺付近
一岡神社からさらに進むと、熊野街道の雰囲気が増してきます。
というのも、熊野街道の看板などが設置されていたり、歴史を感じさせる古民家が目立ってくるためです。
▲熊野街道の立て札
泉南市信達牧野。この辺りは街道にも趣がでてきます。
▲名所案内板
見どころはこちらでチェック。
▲呉服店や畳店が点在する通り
その他、旅籠跡なんかもあったりするんですが、熊野詣に使われていた街道ということで、ちゃんと理由があったんですね。歴史街道ってそういうところがおもしろいと思います。
次に、林昌寺という寺院に立ち寄りました。
が、なんと!
本殿改修工事中。
金剛組って聞いたことあるなぁと思って調べてみると、現存する世界最古の企業なんだとか。578年創業ということらしいので、2017から578を引くと、1439年!?1439年続いている企業ということになる。
▲本殿は残念でしたが、これは綺麗でした
山中渓付近
林昌寺からは一気に距離を稼いで、阪南市の山中渓(やまなかだに)付近にやって来ました。
▲地蔵堂王子
▼立て札をアップで
熊野詣が盛んにおこなわれていた頃(平安時代後期・1200年ごろ)、その道筋に熊野権化の分神が祀られました。これを「王子」といい、浪速(大阪市)から熊野(和歌山県本宮市)までの間におかれ、総称として「九十九王子」と呼ばれていました。
一つ謎が解けました。熊野街道の観光案内を見ていると、「◯◯王子」と呼ばれる史跡が点々としているんですが、どういう意味かこれを見て分かりました。
熊野権化云々という伝承、それよりも、駅というか休憩所というか、長い道程の区切りの場として、◯◯王子という地点があるということが役立ったのかもしれませんね。
今回の旅の終着地、山中渓に着きました。
山中渓付近にも見どころが多く、また、帰路にはちょっと寄り道もしてみましたので、そのあたりの模様は、「熊野街道 この道わが旅 其の二」で書いていきたいと思います。
大阪から和歌山といったピンポイントな話題でしたが、これを読まれている方の地域にも歴史街道があるかもしれませんね。意識して街道沿いを見てみると、こんなものがあったのかと、新しい発見があるかも知れません。
最後に、
歴史街道は、狭い道が多かったり、一方通行になっていたりするので、その際はお気をつけ下さい。自転車が便利かもしれませんね。
ありがとうございました。